「正論と規範の子」に対する考察【後編】

お子様について

はじめに

いつも読んでいただきありがとうございます!

本記事は、「正論と規範の子」に対する考察【前編】の続きです。

前編は「正論と規範の子」がどのような子を指しているのか、という内容になっていますので、そちらを読んでくださっている前提で今回のブログは進みます。

この記事では、大人の目にはパッと見問題なさそうに映る「正論と規範の子」のどこがなぜ危ういのか、そして自身の鋭さとどう向き合うか、ということについて、私自身の経験も交えて書いていきます。では行ってみましょう!

「正論と規範の子」の危うさ①:思考・言語の鋭さと実行機能の差

「正論と規範の子」の危うさその1は、思考・言語の切っ先の鋭さと(外部の世界を巻き込んで)その言葉を実現する力のアンバランスさなのではないかな、と思います。いわゆるインプット凸・アウトプット凹勢によくあう頭でっかちさにそれに近しいものと解釈いただければと思います。

「正論と規範の子」は、ある時は自分の頭に自然に浮かぶ思考とそれを実現する力の隔たり、ある時は自分はこう思っているのになぜ周りは同じようにしない(できない)のだろうという葛藤、あるいは他者に助けや協力を求めるハードルが高い…そんな傾向があるのではないかな、とまるは考えています。

例えば、なにかうまくいっていないものを見た時、

こういう課題があるのであれば、根本要因としては~~があると考えられるのだから、**して、その上で〇〇すればよい

ということはパッと浮かぶものの、じゃあそれを自分ならできるのか?となると、それは違う…という事が多い、そのような感じです。

もちろんこれは誰にでもあるものですし、成長していくうえで心身ともに成長することでできることは増えていくものです。

ただ、「本来こうあるべきなのに」という気持ちが強く出るとなると、そして自分一人の力でそれが解決できないとなると…やっぱりしんどいじゃないですか。

また、傍から見ている立場として、課題点が見えても自分が解決できるかというのはまだ別の問題ですよね。「課題点が分かっている」と「実際に解決に向けて動ける」の間には、以下のような溝があります。

  • それを解決するためのTODOリストを作れるか
  • どのような情報が集まればTODOリストを作れるのかを理解できるか
  • 仮にTODOリストを作ったとして、それを完遂できるか
  • そもそもそれを解決しようと声を上げられるだけの立場にあるか

言うは易く行うは難しとはよく言ったものです。

イヤイヤ期がしんどいのは、子供的には自分一人でもできる!と思っていても実際にはできなくて、その差にア”ア”ア”ーーーーー!!!!!となっているからだ、という説を聞いたことがありますが、それが言葉を伴って出てきている、といった感じでしょうか。

このような嗜好性は完璧主義とかこだわりとか正義感とか、言い方は色々あるとは思いますが、元々強めに持って生まれた勢としては、気持ち緩めていくという体感で進んでいけると自分も周りも楽になれるのではないかなと思います。(これもまた言うは易しなのですが…)

自身の信条と異なったり、叶わない出来事に遭遇した時には誰にも心のバッファが必要です。

ただ、自分の中でこうしたい、もしくはこっちは嫌だ、という気持ちが元々強く出る人間は、輪をかけ自身はこうであるという自己理解、そして改善点そのものよりむしろ心のバッファのある状態で人や事にあたることを重んじることが肝要なのかな、と思います。私自身もちょくちょく肝に念じていることです。まぁコケながらではあるのですが……

「正論と規範の子」の危うさ②:自分と周囲が100:0/0:100になりがち

次に、「正論と規範の子」は自分と周囲のバランスが極端になりがちであるという話をしようと思います。一応分けてはいますが、根っことしては①と同じ事象について語っています。

①で述べた通り、「正論と規範の子」はあるべき論的思考が強いです。では、そのあるべき思考は必ずしも外に向かうのか?となると、内側(自分自身)に向かうことも往々にしてあるよね、という話です。

これは、「周囲とうまくやらなければ」という内なる”規範”が強い、といったケースに該当する印象です。

もともと自分の意見が強い人が全く出さなくなるなんてあるか?とお思いの方もいらっしゃるかと思いますが、あるんですね…。私自身にも大いに身に覚えがありますし、「身に覚えがあるよ!」と発信をしていると、ときどき「実は自分も…」と伝えてくださる方もいます。

特に最初自分を出したけどうまくいかないという事が続いたり、ある場で少数派となったことで自分の感じ方考え方そのものに対して「間違っているのでは?」と感じたりする時。なんせ少数派ですから、同年代の中で「それ分かるわー、自分もだわー、、」とはならない事象かと思いますし、無対策だと恥をかくこととダイレクトに結びつくことで心が内側にこもってしまうのではないかな、という印象です。

また、自分はこう思うけど周囲はそうではないらしい、という環境では、自分の思考の輪郭がなかなか形を伴いません。対して、多数派の周囲の意見は個々人多少の違いこそあれ、少数派のものよりよっぽど輪郭を伴っていて、少なくともその場では数の理論で強いし正しいものとして映ってしまいます。

お子様のケースだと、高IQ勢でたまに聞くのが、小学校低学年くらいまではむしろ我が強いのが前に来ていたのに、小学校3~5年生あたりで(精神的な認知が追い付いてきて)それまでの自分の我の強さや意見の出し方に途端に疑問を持ったり黒歴史扱いになってしまうという話なども。

とはいえ、「正論と規範の子」はそれ自体が悪なのではありません。ただ、世の中一般的に言われるような言葉やアプローチがnot for him/herなだけであり、良さも悪さも紙一重でしかありません。

以降は、このような性を持って生まれた子…いや、大人も、がどうすれば、自分とも周りともうまくやっていけるかな、ということに関し私の考えを書いていきます。

自分と相手の間には2本の線がある

  • 自分はどう思っても、考えてもいい
  • 相手もまた、どう思っても、考えてもいい
  • 自分と相手のあいだには2本の線があり、緩衝地点がある。この場で、それぞれの考えを共存させる。

↑は、直近で私が心掛けるようになってずいぶん楽になった心の持ちようです。

自分語りですが、私まるは先天的か後天的か自他境界が割と薄めの人間です。

人と上手くいかなかった時のことを振り返ると、(もちろん相手の落ち度が0ではないのですが、こちら側としては)割とすぐに相手に同化したり、相手も自分もシームレスなのだと実際より思いたかったりしていたなあ、と思います。そんな折、確かトラウマ治療的な文脈の書籍かツイートで上記のような内容を見たのです。

自分の中で「ハァ?そんなの絶対ない。ありえない。」と思っていても、自分の領分の中のみで思うだけならセーフ。でもそれを緩衝地帯で原文ママで伝えるといいことない。自分の領分で言い方を考えて、緩衝地帯で相手と対峙する。自分の感覚が分かって初めて相手に対してどう思うか、そしてそれをどう伝えるかという分まで頭が回るというもの。

逆に、相手の意見に対し必ずしも仰る通りです…とする必要もない。たまに踏み越えてくるヤツはいるので、そういう時には伝えたり周囲に助けを求めたりといった行動につながる。

具体的なものに向き合いましょう。未来は気にしすぎても良いこと無し。抽象的な悩みは具体的なものにすること。

もう一つ、主に仕事モードの時に心掛けているのが、今やることを具体的にすること

漠然と「今よりもっと幸せにならんかなー」とか「うまいこと何とかならないかなぁ」と思っても何にもなりません。具体的には、以下のようなことをしています。

  • いつまでに、何ができていればOKなのかを言語化する(明確になれは言葉じゃなくてもいいはずです)
  • 先に予定を決めてしまって、期日までになんとかやりきる。
  • 頼りたい人がいたら頼る。仮にダメでもお礼は言う。

一人の人間ができる事なんて、もう、それくらいしかできないと思います。

世の中には、確定している事なんてそう多く存在しません。地域や時代によって価値観や良しとされることは大きくかわりますし、日常だってAさんとBさんの意見は異なります。絶対こう、と言えることとしては、人はいずれ死ぬ、くらいではないでしょうか(極端…)

これは私が青臭いだけかもしれませんが、自分の5年後、10年後なんて、分かりません。特に、家や子供といった守るものがまだないフェイズでは、本当に分かったものではありません。

5年前の私も、10年前の私も、よもや私が今みたいな働き方をしているとはつゆほどにも思っていないものです。「〇年後、私、ちゃんと仕事にありついているのだろうか…」なんて夜にでも考えようものなら、ワンチャン路頭に迷っているのではないか、とか思います(マジです)。

業務内容とか就業形態とか関係なく、仕事をする上で私はそういう風に思いやすくそしてわりとBADに陥りやすい(本当にマジです)ので、割と意識して行動ベースのTODOリストを作、答えが出ないものは保留!!!と日々念じていたりするのです。

おわりに

私自身が「正論と規範の子」だった…いや、だったなんて他人事みたいですね、今でも常々向き合っている内なる心の声である「正論と規範の人」として、色々書いていきました。

ちなみに、宣伝になってしまうのですが、ココナラの私のサービス枠では、このような内容についても一緒にお話させていただくことが可能です。

もちろん人の性質ですから一朝一夕にすぐ変わることも無いですが、なぜ自分の内なる心の声は妙に威圧的なのか?断定的なのか?といった話や、白黒つかない時の気持ちの向き合いかた、もしくは日々お考えのことをひたすら聞かせていただく、でももちろん大歓迎です。

また、直近で私が読んだ書籍で興味深かった一節をもってこの記事を終えようと思います。

とくにマイノリティの第一世代(※ まる注)では、自分の感じていることや、しようとしていることが、周囲の人からは意味のあるものとして拾われにくい。「意味」とは、人がたった一人きりでいて生まれるものではなく、少なくとも異なる二者が同じものに注目し、それについて「どのように解釈しているか」というまなざしを共有することによって立ち上がるものなので、身体的条件や社会的条件が多数派から量的に大きくかけ離れている人々の場合、多数派と同じものには注目できず、また、まなざしを共有することも難しいのである。

『つながりの作法 同じでもなく違うでもなく』綾屋紗月・熊谷晋一郎(2010,NHK出版 生活人新書) p80

では、今回はここまで。

ここまで読んでくださりありがとうございました!

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