高IQ女子×ギフテッド・凸凹あるある~傾向と対策編~

ギフテッド

はじめに

今回は高IQ・女の子という属性と非定型発達ないしギフテッド特性と呼ばれる属性の両方に位置するゾーンに焦点をあててその特徴を深掘っていきます。

以前書いた「女の子ギフテッドの特徴」の内容と同じ像を対象にした内容ですが、今回は「こういう点が本人や親御さん、周囲にとって大変」という面がメインの内容となります。

一言で言うと、はたからのわかりづらさが一番の特徴だけど、きっと向き合い方はあるはず、と模索している記事です。

高IQ…もちろんこれも人による、というかIQが分かっている時点で、ということもありますが、自分の内的感覚を横置き(無視とも言う)して、周囲からの情報をある程度統合して見られるが故のという感じのニュアンスでお送りしています。

今回の記事もいつもの事ながら直接カウンセリングや個別でお話した色々な方の事例を少しずつ参考にさせていただいています。では、行ってみましょう!

自他ともに気付かれにくい。

さて、高IQの女の子で何かしらマイノリティな要素を持っている場合のあるある。

それは、大人がなかなか気付かない、に尽きるのではないでしょうか。

子どもの場合、世間的イメージの「問題児」と重なる場合大人は総じて気づきやすいのだと思います。

このような表出はADHD的な特性の中でも衝動・多動性、ないし非同期発達特性が背景になることが多いのかと思います。物理的に動いたり手が出やすかったりしますし、授業が退屈だという意思も割とわかりやすく出す傾向にあり、大人から見て注意を向ける先としては比較的わかりやすいです。

しかし、本人の持ちものとして以下のような要素がある場合、それは目立たなくなるのではないでしょうか。

・完璧主義の気のあるASD

・自前の努力や家庭のフォローでカバーできる程度のADHD不注意

・自前の努力で抑え込める程度の感覚の鋭さ(感覚過敏や諸々のOE等)

※自前の努力は必ずしも自覚があるとは限りません

なぜなら、皆と馴染みたい意思と目立たないために回すエネルギーが彼女らには備わっているから、いわゆる「擬態」する力が生来の持ち物に勝ることができるのです。

なんなら優等生や先生を助ける側に回ることも少なくないという声も多いですね。

余談ですが、まる本人には(受験はともかく)あまりにも学校が退屈だと親に訴えた所「それは中学受験生の宿命だ。気持ちはわかるけど、先生を困らせるだけだから黙っていなさい」と言われてしまった過去があります。

ノートの隅でパラパラ漫画を作る事が上手くなりました。

話を戻します。学校に通っている場合、集団を率いる必要のある多忙な先生が、彼女らに要注意の目線を向けることができるのか?となると、大半の先生はできないと思います。

もっとやかましい子や明らかに気をつけねばという子は、3~40人も子どもがいれば、数人はいますからね。笑

どうすれば気付けるのか?

これが一番難しいと思うのですが、これは本人が体調を崩すのを待つ、つまり表に出るのを待つしかないのではないでしょうか。

もしきょうだいが特性や学校への不適応を起こした場合はもしかして…というメスが入る場合もありますが。

親御さんも、あまりに家での様子と園や学校での様子が違うようだと「おや?」となるケースもありますが、特に第一子だったりすると子供はそのようなものという範疇内に見えるケースも多い印象です。これは決して親御さんが悪いのではなく、本当に見極めが難しいものなのだと思います。

親御さんは子育てをその子基準で考えますから、色々溜まって本人がダウンして始めて凸凹の存在を検討し始めるという例を結構界隈では見る気がします。(もっともこの点に関しては育児したことのない私がエラソーに言うのも正直どうかとも思うのですが…)

正直、診断がつくつかないの云々は大人であっても「本人が困っていれば診断がつく」というベースなので、同じ因子を持っていても本人がピンピン元気に日々を送っていれば、検討するタイミングでは実際ないのでしょう。

未就学児~小学校低学年の場合

ここからは、未就学児~小学校低学年の比較的小さい子と段々思春期に差し掛かる頃の2つに焦点をあてて記事を書いていきます。その間の年代はグラデーションのようになっていると思って読んでいただけると幸いです!

では、前者からいってみましょう。

この場合は検診の結果や親御さんが保育園、幼稚園、家での様子からおや?と思って検討する事が大半でしょう。

保護者の方に聞くと、おそらくはストレス由来で夜驚症や癇癪、じんましん、嘔吐、場面緘黙、園や学校への行き渋り等々、さまざまな出方があることが伺えました。

そのような場合、保護者の方は一次的に自治体の発達支援センターに相談し、そこからは自治体やその担当者の方によって経過観察だったり、療育やプレイセラピーを含む医療につながったり…どの親御さんも「自治体による」と仰っていた印象です。

ただ、未就学児という時点でとりあえず様子を見ましょうという対応だったり、療育などにつながったとしてもお子さまが高知能の場合大人の意図を既に把握できちゃっていたり。

正直、小さい子の場合は非同期発達的な要素がまだまだ傾向として大きいというのはあると思います。1~2年ほど経ったら発達が追い付いて表出も落ち着いたという話もありますので、この記事を書いていても、全ての子に当てはまる言葉は無いんだろうなぁ…というのが正直な感想です。

様々な親御さんにお話を聞かせていただきましたが、この年代ですと必ずしもお子様本人が外に居場所を求めているとも限らないようです。

どちらかというとストレス減の特定やお子様の興味関心ごとの把握、必要に応じて個別のSST的な大人の介入、なにより保護者の方同士の情報共有や気持ちを話せる場所がきっと今よりもっと必要なのだろう…と思った次第でした。

思春期に向かうと

さて、ここからは小学校高学年以降に焦点を当てていきます。

一般論として、小学校高学年から中学校に上がってくると、ヒトの承認欲求は親や先生だけでなく段々同年代に向かってきます。思春期。一言で言うと、少なくない割合が荒れますね。

一軍から孤島まで、わりと人の事まで常に余裕を持てる出来た子というのは(皆無とは言いませんが)あんまりいません。いたらその子が凄いのだと思います。

育ちつつある自我。まだサナギの中身のようなものですから、流動的です。

教室では、承認をよこせという需要が圧倒的に供給を上回り、承認欲求が教室を満たします。

定型発達であっても自分を持て余しがちな時期です。

中学受験などしていると「思春期は自我が肥大するものである」とかそういう文章は絶対どこかで読まされますから、自分や友人の言動など見てフーンこれね、うわダサ、見てられんなどと思いはしますが、じゃあ御せるか?となるとそれは全くの別物です。

私だって!!!スゴイって!!!!言われたい!!!!!!(でもそれが表に出るのはダサいから嫌)(そう思う自分も嫌(と思うことで何かに許してもらいたい))(私って何か人として欠落しているのかな?)

のです。

ご覧下さい。()内は全て自分の内側に向かっている言葉ですね。これが自意識です。書いていて体がモゾモゾしてきます。。。

しかし、誰に褒められても同じように嬉しいのかと言われるとそれは違います。

いつも頼りなくてモジモジしている付和雷同な子に「す、すごいね…っ!」と言われるのと、クラスのボス群の子に「やるじゃん」って言われるのでは、重みが違うのです。残酷。

オタクの僕にも仲良くしてくれる優しいギャルという筋書きに一定の需要があるのはこういう力学が理由となっています(何の話?)

あ、スクールカーストは関係なくても実力で一目置く要素のある子にというのは確かにありますね。圧倒的に絵が上手い子に文化祭のポスターを褒められるとか、コンクール常連者に部活の演奏を褒められるとか。それ「だけ」を「最初から」目指すのは修羅の道だと思いますが…。

小学校低学年までと高学年以降の一番大きな違いは、やっぱり承認欲求を家の中だけでなく外に(それもできれば同年代に)向けだす、ということではないかという章でした。

勉強に向かうパターンについて

この部分は保護者の方というより、私個人が見てきたものの話になります。

記事の本旨からはすこし逸れますが、勉強というフィールドで結果を出そうとする子に焦点をあてます。ここでの勉強は知的好奇心を満たす路線というよりは進学や偏差値にかかるタイプの勉強だと思っていただければ幸いです。

さて、上手くいかなくて拗らす事もありますが、なんたって成績は言うまでもなく承認欲求の供給源として大変わかりやすいものです。

根っこが特段好戦的でなくても、可愛がられる下兄弟や男児にフィジカル面で勝てない事を悟りだすことで「男には負けない、勉強は平等だ」という熱いスピリットを答案用紙にぶつけるファイティングガールもいます。

ちなみに界隈にはかつてご本人がこうだったというお母様も割といらっしゃる印象です(独断)。

なまじ結果出してしまう(褒めてます)ケースも少なくないと思いますが、このような場合、承認欲求が「私には勉強しかないんだ!!!!」という悲壮な感じになってしまうとなんでか知りませんかいずれコケます。

きっと周りを無意識に拒絶してしまうからでしょうね。

やったことのある身として自戒を込めてお伝えします。勉強以外のフィールドに居場所の無さを感じるとこうなりがちです。本人もいずれ気づいてアーっとなりますが、一度承認欲求の矛先として向けた先を変えるのが少し不器用な、振り上げたこぶしを下ろすのがちょっと苦手な人はいます。なんなら大人でも。これは自分のことをカワイソウなアタシ!と思っているのとは根っこ違うと思います。 

しかし、その矛先で結果が出なくて心がこじれ、周囲に歪んだコミュニケーションを向けたりすると最悪ですね。友達自体がいなくなっちゃいますから…(私もかつて全力で逃げた過去があります)

もしこのようなケースに当てはまるお子様の場合は、勉強で戦うフィールドである大学受験の後とかでも全然いいんで、

・その勉強はなぜやり続けられたのか?

・頑張れた場合、それは明確な答えがあるものだったからか?(大学の「学問」は答えが無いのでみんな混乱します)

・自分はチームプレーにどれほど耐えうる人間か?

という点に関しては、時間がかかってもいいので自分なりの考えを持てると嬉しいですね。

わかる・つながる

ここからは、言うは易く行うは難しであり長いスパンでの話にはなりますが、界隈っ子と接する上での「わかる・つながる」という基本的な通念についてお話します。

まずは自分のかたちを知ること。

ここでつながるのが医療や福祉の現場であったり、年上の似たような性質のあるお兄さん、お姉さんと会えると理想的なのでしょう。

それから、凸は凸、凹は凹の受け皿を探す。これはIQ値というよりは個々人の得手不得手のことを指します。

将棋が得意、数学が好き、語学に長けているといった凸。

考えがまとまらない、伝えるのに困難がある、やけになりやすいといった凹。

傾向と呼ばれるものは確かにありますが、結局は本人に当てはまるかどうかです。

あと、女の子に関して言えば仮に凸があってもそれで目立つのは嫌という子は少なくないです。

大人はわりと無責任に留学とかコンクールとかキラキラした場に彼女らを置けばいいと言いますが、彼女らに関しては「戦って勝ちたい」という意思がある子はいいとして、凸が凸であれる場所ってすごく楽だからやってみない?引かれないよ、結果出さなくていいよ、大丈夫だよ、あなたがあなたのままでいられる場所だよ多分というアプローチの方がなんぼか効くのではと思っています。

彼女たちはトロフィーや賞状と同じ位「ここにいていいよ」という居場所を切に欲しているのです。

どこにいるかで「自分」は変わる。居場所はナンボあってもいい

いわゆるギフテッド教育とよばれる飛び級やらコンクール、サマースクール、そこまで行かずとも習い事のような舞台が必要な場合もあるでしょうし、療育路線のアプローチで自身ないし他者との付き合いかたを探っていくこともあるでしょう。

「どこにいても自分は自分!」というタイプの人もいますが、そもそも今回取り上げたものに当てはまる人はどちらかというと環境に大きく自分の在り方・出し方が左右されるタイプが多いのではないでしょうか。

そのようなタイプは、1つの環境だけでその人の全てを出し切ることはありません。

一人の自分。家族といる時の自分。SNS上の自分。部活の、習い事での、友人Aくん、Bちゃん、C先輩、後輩Dといる時の自分…変数は無限に存在します。

仮に根底の凸凹こそ同じでありこそすれ、どんなときも組と決定的に違うのはこの点です。

おわりに

世間的にはまだまだ「こういう子の支援は複雑」位の解像度に留まってしまっている印象です。

医者であってもなかなか気づかれることの無い女の子たち。

彼女たちにとって、あくまで善意ないし周囲の期待に応えたい気持ちで「置かれた場所で咲こうとする」ことは、自然なことだったりします。

そして、そこについていけなかったり体調を崩してしまう、期待に応えられなかったり、クラスの話題に皆ほど楽しんでいないのでは?とふと気付く瞬間、彼女たちは自分自身に対して否定のまなざしを向けてしまうこともまた「あるある」なのだと思います。

もちろん、どんなにミーハーでも全ての流行りものに乗れる人というのは存在しないのですが、今であれば「クラスの一軍がみんなtiktok見たり撮ったりしてるの怖い」とか「K-POPアイドルの顔と名前が覚えられない」とか、「旧ジャニーズ事務所への手のひら返しの速さ何なん??」とか…ええ。もしこういう方向性のことを考えている子がいたら、全部について行けなくても自分を否定しないでね、おかしなことではないからね、と言ってあげたいです。

では、今回は以上です。

ここまで読んでいただきありがとうございました!

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