あの日の自分にメンターがいたら

人との対話

はじめに

前回の記事では「凸凹っ子には同じような苦労をしてきたメンター的な存在が必要」という文章を書きましたが、今回の記事は私自身、今つながっているような人たちとのようなつながりがもしもっと前からあったら…という内容になります。

ですので、この記事は半分くらいたらればでできています。

あーなんかもがいてんなー、って感じで見ていただければと思います。笑

対年上との交流

さて、この記事を書くにあたり私はSNSを通じて多くの人と出会ってきました。それまで私の友人は同年代が大半だったのですが、凸凹っ子つながりや仕事探しというでの交流では自分の親より少し若いくらいの方たちと関わることも多いです。

人によっては「●●君/ちゃんの親御さん」ではなく一対一のその人、という関わり方をすることもあります。そして、その中で向き合うことになった自分の一部分があったように思います。

実は、私は年上と話すことが苦手でした。

相手の全体像がつかめない故に相手の言葉の意図が分からない時があるのが漠然と怖かったり、手を差し伸べてくれる人に対しても「どう答えるのが正解なんだろう」とずっと考えたりしていたものでした。今にして思うと「大人は可愛がってくれる」という感覚がデフォルトで無かっただけな気もします。自分の守備範囲外の話をされた時のどうしよう!という緊張感もあったのかなー、という感じです。

とにかく失礼の無いように、という気持ちが先行していた気もします。が、いまから思うと親しくなった時の崩し方の程度も分からないし、やたら四角張った表現になってしまっていたり、良い伝え方が浮かばずにどうしようどうしよう、となってしまった結果かえって相手との「対話」ができていなかった、というケースも決して少なくはありません。

気を遣うとか言っている割には、それほど快いコミュニケーションになっていたのかと言われるとちょっと怪しいですね。自分が周囲とうまいこと調和できていないということはその場だけでもわかるのです。

これを書いていても自分自身のことでいっぱいいっぱいだったんだなあというのが分かりますね。

相談するハードルの高さ

また、私の場合は、自分が相談をする時に「安直に大丈夫!と言わない人だろうか」という不安感が常にあったように思います。

今はまだ躓いていないけど、自分の中のこの違和感はいつか表面化するのではないか…

そんなことを話すと、大体の人には「考えすぎだよ」「大丈夫だよどうにかなるよ」と返されてきました。

そう返したくなる気持ちも分かるのですが、実際に自分がうまくいっていない局面の時にはやっぱり「あの時大丈夫って言ったじゃん!私ちゃんと言葉にしたからな!」みたくなってしまっていたこともしばしば。やっぱり、あの時話を聞いてくれる誰かがいればとは思いましたね。

もっとも、私自身がそのもやもやをもっと因数分解して、部分的にでも他の人に伝わる形にするようにするというスキルはもっと磨けたのかもしれません。

このあたりの内容は私の周りで最近言及されていることにも近いかな、と思います。

以下2ツイートなどがその例ですが、お二人とも社会の中で仕事する方としてとても真摯な言葉を紡いでいるなあ、と感じました。両方とも1ツイートでは完結していないので、ご興味があればぜひリンク先へ。

「高IQ・ギフテッド」というラベリングの有無は本来の主張とは関係ないという見解のものではありますので、どちらかというと「人と通じないと感じた時、こういう切り口で考えた人もいたんだな」という感じで見ていただくのが良いかな、と思います。

「伝わらない!」という不安感が取っ払われている時の自分は穏やかに話せているし、思考だけが横滑りしている感覚はありません。同年代と1対1で話すのとは別の安心感があります。

カウンセリングなどを受けようとしても同じようなことにでくわすことは多々あります。今悩んでいることや自己紹介が無駄にスムーズだったりすると、「大丈夫な方」扱いされて、本来かけてほしかった言葉とは別の言葉をかけられてしまいます。(初対面の人に多くを求めるのも違うとは思うんですけどね)

対同年代との交流

これまでは年長者相手のやりとりについて書いてきましたが、同年代についても同様に書いていきます。

大学時代、私は「相手に興味を持てば、自分にも興味を持ってもらえるのではないか」と思い、まずは相手に興味をむけることを自分の中ではすごく意識していました。

バイト先であれば業務が共通の話題になりますし、学内であれば共通の知人やそのサークルの名前くらいは分かります。

「あぁ~●●でバイトしてるのね!私××!同業!●●はバイトがしっかりしてる気がするけどどう?」

「あ、サークル~~ってことは▼▼君と一緒?あ、あんまり絡みは無いけど■■ゼミ?なら…」

みたいな感じです。私の場合、必要性を見出していれば既存の知識をとっかかりに「相手の事を知りたい!」というムーブを作るのはそんなに難しくはないのです。

今はできないと思います。誰か通じる人が欲しいという気持ちが私を動かしてました多分。

実際、「興味を持つ」だけならある程度スムーズには行ったのではないかな、と思います。ただ、一人の人にずーっと興味を持つというのは普通に考えてなかなか労力を有しますし、知ったとて「この人面白いなあ。もっと知りたい」と思うかはお互い次第です。

相手がこちらに興味を持ってくれたフェイズでも、どこか「本当の自分」はうずもれているような気持ちがありました。誰にも何にもされていないのに、これ以上何が足りないというのだろう。

自分の中には狂気のようなものがあるのではないか・・・?

せっかく「あなたのことも教えてよ」フェイズに入っていて、今までの会話の流れからして違和感のない会話をしていて、でもなんだろうこの伝えきれていない感じは・・・という感じです。

そしてそのなんともいえないモヤモヤは悩み事を相談した時の「それは気にしすぎ」「そうきたか~」というレスポンスで表出します。

相手なりに誠実に答えてくれていることは分かりつつ、「順当に考えたらそうだよなあ」と思いつつ、心からの腑に落ち感は無いときの「やっぱり私がおかしいんだろうか」感はずっと言葉になり切らなかった部分なのかもしれません。

もちろんWAIS・WISCを受けたらたちどころにその違和感がバサーッと無くなるぜ!!という訳ではないですが笑、同じような違和感を持つ人がいること、その人は違和感とどう向き合ってきたか、本人なりの違和感への見解などなどにふれることで、「独特」とか「特有」と言われてしまいがちな部分の存在を認め、初めて光をあてるスタートラインに立てるのではないでしょうか。

おわりに

以上が私自身の交流に関する考えや感じたことです。

年上の方との交流や同年代の人とのつながりにおいて、自分自身がうまく調和できていないと感じることもありました。相手が理解しようとしてくれていることはありがたいですが、不安や本当の自分を表現できていないという気持ちもありました。

また、同級生との交流では興味を持つことを意識しましたが、一人の人に長く興味を持ち続けるのは難しいことであり、お互いの関心や相性も関わってきます。

自分自身に独特な感情や考え方があるのかもしれませんが、他人との対話や相談において、心からの腑に落ちる感覚を得ることができないこともありました。

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