はじめに
ご覧いただきありがとうございます!
6/15(土)に行われた、第三回目の「ラベリング迷子」読書会の活動報告となります。
今回のテーマは「家族について」。前回、前々回は当事者の方をメインにお話をさせていただきましたが、今回は当事者のエピソードに加えお子様が当事者です、というお母さまが多くお話に加わってくださった会でもありました。
主にスピーカーとしてお話ししてくださった4名(Aさん、Bさん、Cさん、Dさんとします)と運営の私まる、そしてとらっちさんが話し手となった回でした。4名はそれぞれ以下のような立場でのご参加でした。
Aさん:今回が初参加の方で当事者
Bさん:以前オーディエンス参加で今回はスピーカーの親御さん
Cさん:以前からスピーカーとして参加してくださっている親御さん
Dさん:以前オーディエンス参加で今回はスピーカーの親御さん(後半からご参加)
また、オーディエンス(聞く専門の方)も多く発言をしてくださった会でもありました。
今回は出てきたトピックごとに分けた活動報告となるため、時空列順としては前後する箇所もありますがご了承ください。では、行ってみましょう!
フラストレーションは内ですか?外ですか?
後半から参加のDさん以外の皆様+運営で自己紹介後、会話に移りました。
Bさんの自己紹介にて、うちの子はいわゆるギフテッドだと感じるが、そのような子たちや親御さんの集まる場に行くと、そこともまた違う…と感じる。多くは自分の好きなことや気持ちをわっと外に出す男の子が多い印象だが、自分の子供はどちらかというと内にこもるという話がありました。
その流れでAさん、Cさんはどうかという流れに。
Aさん:自分は当事者だが、(大人になってから得た知見として)ストレスを外に向ける人と内に向ける人は両方いる。自分が子供の時は、同年代のワー!キャー!というノリには白い目を向けたり、あるいは圧倒されたりだった
Cさん:自分の子供はカメレオン型。置かれた場において望ましいとされるふるまいや言動をしようととても頑張る。周囲を愛し、また愛されたいのだと感じる。そしてそのフラストレーションは母である自分に向かう。
Aさんの発言に頷くBさん。そして、Cさんの発言にもコメント欄にて様々な反応が寄せられます。
「そもそもの受け取る情報量が多いのでキャパオーバー的な表出をしやすいのではないか」
「常に先読みをする故に疲れたり、子供特有の無秩序なノリがしんどかった」
「負の感情を出してよい場と判断してから出すようにしている…」
…けして笑う所ではないだろうと思いつつ、かつて子供だった頃、可愛げがないと幾度となくいわれてきた主催の私としては思わずニンマリなメッセージが続きます。そう。書いていて思うのは、さしずめ
「受け取る情報量が多いと御すのが大変」
「感情を安心して出すというのはとても難しい(仮に自分がスッキリするとしても、周囲がそれを受け入れられないでしょうと感じたらこちらが感情表出するメリットってなんなの?無いでしょ?自分だって必要以上に和を乱すような存在にはなりたくないんだが?)」
といった感情でしょうか。
感情の受け皿になりたい VS 「〇〇だったんだね」「ち”か”う”!!!」
これはとても難しいテーマの部分だな、と思う箇所です。Dさんも途中で加わります。
上記のような「子供っぽい感情の表出しないよね」という流れになった後、コメント・オーディエンスともに親御さん方からはこのような言葉が出てきます。
私は、どうしたら自分の子供の感情を受け止めきれる存在になれるのでしょうか?
Bさん「自分の娘は「言っても無駄」と外界に心を閉ざした経験があるのだろう」
Dさん「子供のすべてを受け入れたい。どんなに毒づかれてもそうだったんだね、と言ってあげたい」
という言葉がわかりやすいですが、一般的に流されたりわかりやすくない分、親である自分が子供の気持ちを受け入れて、居場所になるんだ。ということです。
親というのはなんと強く、美しい存在なのだろう。こんな決してビッグネームでもない子育てもしたことのない私の開く会に来て、少しでも何かを見つけてくださろうとしている…。これは正真正銘の愛です。
しかし、では子供の側はどうしたら満足が行くのでしょうか。一筋縄ではいかない様を、ご自身も当事者かつお子様を育てるCさんからは次のように語ってくれました。
「悔しかったんだね、悲しかったんだねと子供に寄り添おうとする。するとキレ気味にそうじゃないんだ!!!と返ってくる。」
これは…!難しい…!単に寄り添うだけではダメなのです。しかし、非常に身に覚えがあります。オーディエンス枠の方からも、「フラストレーションが言葉になるのにうちの子は時間がかかったり、どうやって言えばいいかわかんないと言ってくる」というコメントが来ます。
つまるところ、小さな子であっても「悲しかった」「悔しかった」の一言で済まされる感情ではないものが渦巻いているのです。
例えば、完全なる善意で「嫌だったね」等と「暖かく」「寄り添わ」れてもいまいち釈然としないのです。一人で時間を取って自分の気持ちを整理すると、
・「嫌だったね」の正体は「~~と言われたことにはカチンと来たが(1)
・どちらかと言うとその後の対応の遅さに不誠実さを感じ(3)
・しかしその場で指摘できなかった自分にも腹が立っている(2)
・今後どう伝えればいいか目途が立っていないのも不愉快(1)
位複雑なのです。これは、とてもではありませんがその場で把握・言語化しきれるものでも、また他人から原文ママで「~だったんだね」と言ってもらえるものでもありません。
感じる側としても、一通り言語化し終えると「そ、そうだったのか」ともなるし、「これを一から他人に理解してもらおうと思うのは…さすがに察してちゃんが過ぎるのではないかな(絶対そう)」、でも「中途半端にわかった感を出されるのも不本意」なのです。
そして、まだ大人であれば時間をかけて丁寧に言語化することも可能ですが、子供の場合はアウトプットするに足る力が備わっていないことも往々にあるのです。
複雑な内面をどう処すか
では、上記のように複雑な内面を持つ子には結局何ができるのでしょうか。
この場で出てきた答えは大きく分けて2方向ありました。当事者に感覚過敏がある際はまずそのことに周りが気づくこととその環境調節をできるだけしようというものが一つ。もう一つは、複雑な感情の把握。深い対話をできる場所を人工的に設けよう、という流れでした。
1点目は感覚刺激が必要な場合は与えたり、ヘッドフォンなどでの調整、また特定のシチュエーションが苦手な場合は周囲と交渉したり本人の意向を聞いてその場を避けたり代替案を考えたり、というものでした。
2点目は感情の把握という観点。
まるは初めて知る言葉でしたが、Aさんからはプルチックの輪という8種類の感情を基調として、また色彩を用いて感覚的に自分の感情が指すものに近いものを探っていくという情報共有がありました。
同時に、特定の抽象的なテーマについて話し合う哲学対話が挙がったり、対話に関する場を広く作っているとらっちさんからはトーキングサークルやワールドカフェ、アプリシェイティブ・インクワイアリ―といった場の提案がありました。
おわりに
今回も、1,2回目に引き続き多くのお話しができたとても素敵な会となりました。
「家族について」というテーマのもと、その本人の持つ感情の複雑さがメインとなり語られました。また、スピーカーの方はもちろん、オーディエンスの方からもとても多くのコメントをいただき、この3回目が一番盛り上がった会となりました。
具体の事象も多く上がったため、そのすべてを深堀りきることはできませんでしたが、その場に居合わせた方に、そしてこの記事を読んでくださる方に少しでも来て・読んでよかったと思っていただけていたらうれしいです。
そして、最後にお知らせがあります。
この3回の読書会がいずれも無事好評に終わった、そして「ラベリング迷子」もしくはその周りの方ともっと交流を取れる場所を作りたい、というお声を多くいただいたことを受け、オンラインコミュニティを作ることと致しました!
正式な窓口オープンは7月になるのですが、先んじてこの場でお伝えをさせていただきます。こちらに関するご案内記事も、近日中にアップさせていただきます。
では、今回はここまでです。ご覧いただきありがとうございました!