「私って子供のこと甘やかしすぎでしょうか…」に対する考察

ギフテッド

はじめに

いつも読んでいただきありがとうございます!

今回のテーマはタイトルの通り、「自分、子供のこと甘やかし過ぎなのでは…?」という様々な親御さんがポロっとこぼすこの言葉について。

もちろん、まる自身は記事を書いている時点で育児経験がないので、書き出しの時点で既に限界のあるテーマではあるのです。が、個別をやったりイベント等の運営などやっていると本当によく聞く言葉でもあるので、自分なりに改めてこの言葉について考えてみた、という記事になります。

では行ってみましょう!

大前提、甘やかし「過ぎ」ではないはずです

まず、まるは上記のような親御さんの声に対しては、第一に「甘やかしではないです」と思います。

そして、私の個人的な持論でもあるのですが、受け皿・居場所は多いに越したことないと思うのです。あればあるだけ一人の人間の中の受け止めてもらえるものの量は増えるし、1つの場所がダメでも別の場所があるさという心理的余裕やリスク分散にもつながると思います。もちろん、忙しすぎてはアレですし、金銭面での負担が生じる所でもあるので、そのあたりは兼ね合いなのですが。

界隈の子を育てておいでになると、色々な場面でいわゆる「普通」といいますか、十把一絡げ、皆一緒にという対応では子供が満足しない、もしくは何かしらの不協和音が出る、ということがあると思うのです。そこで親御さんの方でなんとかその子により良い環境や人間関係をあてがいたいと思うと、段々とオーダーメイドな感じの居場所探しが始まります。

その子の知的好奇心を満たすための習い事。

もしくはそれに準じる形で通わせる学習塾や個別指導。

必要な場合は、コミュニケーション面での療育や指導等。

加えて諸々の調整。通ってらっしゃる学校との調整や合理的配慮などなど。

公教育を選ばず、フリースクールやホームスクール等オルタナティブな選択肢を選ぶ方も。

お仕事されている方であれば、ご自身の職場との調整(リモートワークや時短など)。

この他にもきっと色々あると思いますが、ちょっと思いつくあたりでもこのような感じでしょうか。結局はその子による案件ですから「こうすれば絶対大丈夫!」という明確な答えがある訳でなく、それでも少しでもよりフィットする環境を求めて動いていらっしゃるウルトラスーパーアルティメット親御さん方が、私の観測範囲内だけでも本当に沢山いらっしゃるのです。

そんな中、さすがにここまでしなくても…といったことが頭をかすめることは決しておかしなことではないと思うのです。だって、親御さんご自身が同じような子供時代を送っているとも限りませんし、私みたいなはた目から見てもこれらに必要な行動量は本当に青天井だと思いますから…。。。

正直言ってこの記事を書いている私であっても、受け持っている子の習い事遍歴などにふれて「親御さんめちゃめちゃ動いたんだな…」とか、「(お子さんに対して)これが当たり前だとは思わないでほしいな」とか、割と思ってます。笑 でもそれはひとえに親御さんへのリスペクト以外の何物でもありません。

「甘やかし」っぽく見えるのは、マイノリティという構造だから

ここまでは「沢山の居場所を設けることで、その子にフィットする環境作りをしようとする動きはけして甘やかしではないと思う」という話をしてきました。

とはいえ、上記のような動きをしていると、事情をよく知らない人からは、そして保護者の方の内なる視点からもやはり「ここまでお膳立てする必要もないのでは」「純粋培養すぎるのでは」「たまには理不尽から学ぶこともあるのでは」といったことを感じる瞬間はあるのではないかな、とも思うのです。

このような構造がなぜ生まれるのだろう?と考えると、それはやはり界隈の彼ら彼女らがマイノリティだから。そしてそのマイノリティネスに対しての知名度やフラットな視点、お金、ケアを受け持てる人材が足りていない…という、社会的な構造の話になってくるのかな、と思うのです。

「こういう時は”大体””普通”こういうものだろう」という枠から、良くも悪くも外れがちな身ですから、まずは自分の形を知り、このような言動や行動をしてはこのように解釈される…といったことを、身をもって沢山経験する必要はあると思うのです(これは皆そうだよ、という話でもあるのですが)。

とはいえ、世に背きすぎず、過剰適応もしすぎず、自己肯定感を必要以上に削られず、「自分自身はこういう点で社会的にマイノリティだけれども、それはそれとしてどう向き合えばよいのか」と考えるには、それを許すだけの近しい性質の人たちが集まっている場所であったり、一般論でなくあくまで自分の視点から自分の身に起きた出来事についてかみ砕くような時間が必要なのだなあと思うのです。そのような経験を経て初めて視点を自分から世間に向けたり、渦中で大変な思いをしている人に対してかつて自分にもこのようなことがあってね…と話せる、肝の据わった大人になるのではないでしょうか。まあ、私も絶賛現在進行形なのですが。。

当事者だから言える!というと偉そうですが、こういう自己のマイノリティ性というのは向き合うのは早ければ早いだけいいというのが個人的な意見です。子供のころに向き合い損ねたものは、大人になっても追ってきます。過剰適応とかガッツでその場を乗り切っても、一般論に合う形で克服しようと頑張るだけではどうにもならないものは確実にあると思います。

おわりに

今回は「甘やかしでは?」という言葉から派生して、いやいや甘やかしちゃうよ!マイノリティにはマイノリティなりに事情があるのよ!ということをつらつらと書いていきました。

高IQ凸凹だとかギフテッドだとかに限らず、マイノリティはマイノリティであるだけで自己を確立するだけの場所や時間が別途必要なのだと思います。そして、試行錯誤の末にそれが完了した暁に初めて世の中への見方も奥行きを増したものになるのでは(そうであってほしい…!)、というのが、まる個人の意見です。

抽象的な内容の多い回になりましたが、今回は以上です。

ここまで読んでいただきありがとうございました!

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