はじめに
さて、前回に引き続き、日本抜毛症改善協会さん(以下、協会)の「抜毛症改善プログラム」に関する記事です。
今回は、現在進行形でプログラムを受ける中での感想について書いていきます。
前回の記事の「おわりに」で書いたように、私はこのプログラムに対し、すべてにおいて賛成!というスタンスではありません。
そのため、この記事の特定の一部分だけを切り取ると、どうしても協会やプログラムへの非難・批判とも解釈できるような表現をしている箇所があります。しかし、この記事はけしてそのような目的や意図で書かれたわけではないということをどうかご留意いただけますと幸いです。
賛成できる部分もそうでない部分も込みで、このプログラムは私にこれまで考えることのなかった多くのことを考え、ああではないこうでもないと自らの抜毛症ないし自分自身について見つめる機会となったのです。
私が自身の抜毛症について語るにあたり一区切りになる文章にもなります。
プログラム開始当初
プログラムの最初の方では、協会の方針に同意してくれたということで改めて自身の抜毛症来歴をカウンセラーに話すこととなります。
カウンセラー側からしても、相手の人となりやどのような理由で今ここにいるのかは重要な情報です。
初回を終え、残りのプログラム代を払ってから2回目くらいまでは、ただただ私は一歩進んだ!やっと抜毛症について遠慮なく話す場を得たんだ♪♪きっと治るぞ!!!ととにかく前向きな気分でした。
抜毛症について先入観なく話せることというのは日常生活の中でそうないものですから、「否定されるのではないか?」と思わずに話せるだけでも本当に嬉しかったのです。
自分の言葉で何かを語ることでそのものに対する自分の考えや気持ちがまとまっていく、私の抜毛症にもついにその機会がやってきたのだ!という気持ちでした。
なお、当時の私は
「既存の抜毛症に対する研究はなまぬるい。もっと徹底的に誰かが『どうすれば治るのか』という根本的な要因をつきつめるべきだ」
という、今この記事を書いている時点よりも直線的な考え方をしていたように思います。
前提:抜毛症に対する協会のスタンス
以下の私の感想に先立ち、このプログラムにおける抜毛症への捉え方を箇条書きで書きます。
- 抜毛症は心のサインである
- 当事者の心の許容量である水の入ったコップに例え、そこから水があふれているような状態。
- 水というのは生活の変化や人間関係によって生じるイライラ、モヤモヤ、ストレス、不安というものの事を指す
- 協会が当事者やその親御さんに対し提供するもの
- 話を聞くことで現在進行形での「水」を取り除く
- 日々のモニタリング
- 代替行為になるような気晴らしを一緒に考える
- 当事者に髪を抜かす思考回路を協会では「アンカリング」と呼ぶ
- アンカリングは協会独自の表現で、心理学やマーケティングの分野で「消費者が最初に与えられた情報を判断の重要なファクターとしてとらえる」という使われ方をしていることから命名される
- そこから転じて、抜毛は最初の一本を抜くと次から次と行くので、その一本をぬかせないように、という意味
- アンガーマネジメントみたいですね
- 抜毛には意識と無意識由来のもの両方ある
- 意識的なもの
- 主にストレスや外部刺激によってもたらされる
- これらには「水を減らす」でアプローチ
- 主にストレスや外部刺激によってもたらされる
- 無意識のもの
- 物理的に抜けないよう、指先へのテーピングやkeen(振動によって髪を抜こうとしているのを気づかせるもの)でアプローチ
- 意識的なもの
- 「抜毛は不安やストレス解消につながる」という当事者の感覚には代替行為が存在する
抜毛症は悪者?生まれる違和感
プログラムでやることというのは、
・日々の抜毛記録を見ながら
・協会における抜毛症に対するメソッドや見解と照らし合わせ
・都度その生活に足りないものを見出し
・抜毛症をやめるというゴールを目指す
というものです。
抜毛症を治すというこのプログラムのゴールに対し、考え方が変わってきたのは2~3月目くらいだった記憶です。
当初こそ「抜毛症を今回こそやめたい」という思いで参加した私は、その日の抜いた髪の本数や感情を書いていくうち、ストレスの大きさと髪を抜く本数は必ずしも比例しないということに気づきました。
仕事で言うと、忙しさや叱られることで抜毛に走るのではなく、業務と業務の待ちの間みたいな時の方が本数が多いという感じです。
それがなぜなのか知りたい。
その一心から、さまざまな「?」がうまれました。
こうして、抜毛症そのものに対しては
ストレスを無くせば減るというのは、あくまで治療者側にとってそう収まってほしい、分かりやすいストーリーの一つにすぎないのではないか?
そのストーリーの範疇外にいる当事者はプログラムでも改善できなかった劣った存在、そう解釈する人もいるのではないか?
当事者にとって、髪を抜くという行為にはもっと複雑な理由や解釈があるのではないか?
と今までの見解を疑うようになり、
プログラムに対しては
これでは「抜毛症を外から見る関係者」というクライアントを納得させるため動いているようなものでは・・・?
そのために、さながらPDCAを回し仕事をしているようなものなのか・・・?
このプログラムの中に、抜毛症を治す主体という「わたし」はどこにいるんだろう・・・?
といった業務に悩むサラリーマンのような気持ちを抱くようになります。
一方で、抜毛という行為が他者にどう見られるかをさすがに知らないわけでは無い身からすると、協会が「正しい」、少なくとも「一般的には正しいとされることをしている」こともよーーくわかりました。このハザマにはしばらく身を置いていたような気がします。
「やはり」は嫌だ、「なぜか」を知りたい
当事者に髪を抜かせる要因についての私の肌感は、上記の「アンカリング」をはじめとする協会の考え方とは一致せず、私の中でしばらくモヤモヤが続きました。
言語化もできていない状態では当然それをカウンセラーに伝えることもうまくできずに、漠然と「やはり自分が悪いのだろうか」という気持ちでプログラムを受けるようになりました。
やはり、というのは、この感覚を味わったことがこれまで何回もあったことを意味します。
抜毛症は、当事者でない身からすると「よせばいいのに」以外の何物でもありませんから、
「抜毛症を治しましょう」
「治したいという気持ちがある上で抜毛をするのは気のゆるみ」
「それができないのは自制心が無いのでは?」
というド正論をつきつけられた当事者は、自分を弁護する理屈も言葉も知らないまま「やっぱり自分が悪いんだ」ととらえるしかないという構造があるのです。
それでも、やはりと思うままなのは嫌だ、なにかしらこのプログラムを通じて得心を得るんだ、という気持ちが「そもそもなんで髪なんて抜くの?」シリーズで記載している内容たちとなります。
詳細はここでは省略するのですが、このシリーズはプログラムの中でも「いや、少なくとも私には当てはまらんわ」と思った部分でできているんですね。ホント、あくまで一意見なのですが。。。逆に、このプログラムなくしてはこれらの記事はなかったのです。。
ともかく、私の根底にあったのは、髪を抜くという行為を敵と思いすぎじゃね?それがなぜなのか自分なりの答えを出したいという気持ちでした。
納得感は自分の中にある
このプログラムを通じて私がやりたかったのは協会の打ち出す「髪を抜くのをやめる」という最終的な着地点だけではなく、「自身の抜毛症についての納得感」という過程だったのではないか、と思います。
もちろん、これを書いている今ほんの1本も抜かなくなったかとなるとそれは否なのですが、私自身は今まで言語化できなかったものが言葉になっていく中で自分の考え方の癖やそれによって陥りがちな傾向、そしてそれらがなぜ抜毛という行為につながるのか、一つ一つ得心していきました。
その結果、
「髪に手が行くことはあっても、そこから自分が何を感じているかも同時に把握できるようになったため、結果的に抜くところまでいきづらくなった」という、表層から見てもまぁ改善してるんじゃないの、という状態感になったのではと思います。
髪を抜く衝動というのは、文字通り「手が届く」故に、そして効果がある故に、月や年単位で続くんだと思います。
そして、そんな身近で自己完結するストレス解消なんてのは、そこだけ切り取れば敵どころか味方もいいところだと思うんですよね。
また、この章の最後になりますが、私の担当カウンセラーさんとはああでもないこうでもないと意見が一致しない時期を踏まえたうえで「この人はマジでこういう人なんだ」と思ってもらうまでに至った、と思っています。
プログラムは現在進行中なので、もう少しお世話にはなりますが。。
個人的に印象的だったのは、当初付けるよう言われていた指先のテーピングに対し「なんで私がこんなこと、、、テーピングを見て当事者意識を呼び起こすのよりタイピングしずらいストレスのが上回る」という旨の主張をしていた時。本来はつけるものなのですが、なんだかんだ抜く本数が少なくなったということでテーピング無しでOKとなり「協会と完全には一致しなくてもあなたなりに腹落ちする理屈があるんですね」と言われた時、なにか一つの戦いが終わったような感覚がありました。
私の担当の方に限らず、このプログラムを担当する美容師さんはこの道10年以上の経験者に限られています(2023年5月現在)。どの方も、普段の業務+αという形で、美容師業界では知名度があるとは言えない抜毛症に向き合おうとしてくださっています。
プログラムに向いている人は?
私自身のプログラムを扱った内容は以上ですが、もう少しお付き合いください。というのも、このプログラムが私より向いている層もきっといると思っているからです。
ここまではプログラムに対し「いや、私としては」というconsベースの主張でしたが、以降の文章では、プログラムに対しprosベース、つまり賛成だとかなるほどとストンと思った内容に移ります。
この章で書いていくのは、「現状のプログラムできっと効果があるのはこんな層の方ではないか」という内容です。あくまで仮説ですが。
結論としては、
現在の日常に明確なストレス要因がない、良い意味で私みたいな「納得したい!」という欲のない人
美容、見た目というファクターが強い動機になる人
が相性良さそうだなと思っています。
まず前者の「現在の日常に明確なストレス要因がなく、自分について特に掘り起こすニーズもない」という方。
こういう層の方は年齢層も上で、プログラムを受ける代金も自分で出せる方を想定しています。抜毛症当事者の中には、私のように我が強いヤツばかりではなく、本当になんとなく抜毛症になり、特にフォーカスされることもなく気づいたら時が経っていた、という方もいらっしゃるのと思います。
なんなら抜毛というワードを今までご存じなかった方も少なくないかも。
協会のセオリーに対しストンとなるほどと思うことのできる方、でも何かしらの契機にそれこそ「治したい」なぁ・・・と感じている、このような方はプログラムに向いているかも、と思います。
後者に関しては、このプログラムが美容院での施術を基本としているというのが主な理由です。
理美容師さんたちは言うまでもなく髪を扱うことのプロです。その点、もし髪が生えそろったらこういう髪型ができますよ、という提案はお手の物です。
抜毛の症状が見た目に響いているのが何よりもストレスであったり、成人式や結婚式といったビッグイベントを控えているという当事者さんであれば、私が書いているような内容とはまた違う「オシャレを楽しみたいんだ!」という本来協会が提唱しているコンセプトである方面でのカウンセリングが期待できるのではないかな、と思います。
抜毛症は人の数だけある
このプログラムを経て得られたのは、自分自身に対する見解だけではありません。
カウンセラーの方と話している中で、他のプログラム参加者の方にはこういう方もいるよ、ということを世間話として聞くことができたのです。もちろんお名前など個人情報にあたるものは一切ナシです。
私の抜毛症とはずいぶん背景や表への出方が違う方が沢山いることを知り、当たり前ですが、自分の見解が本当にn=1の狭い事例のものだということを改めて思い知ることとなりました。
もちろん全体的な傾向はあるでしょう。それでも、「そういう考え方や捉え方、症状の出方をするのか」と新鮮な気づきを得ることは沢山ありました。純粋に、当事者についてもっと知りたいと思いました。
以下では最近読んで大変印象に残った一説を紹介させていただきます。『質的社会調査の方法 他者の合理性の理解社会学』(有斐閣ストゥディア)という書籍の序章にて、複数の著者のうちお一人が摂食障害の勉強の際に当事者会に参加した時のことについて触れている一節があります。
そのときに面白いなと思ったことがたくさんありますが、そのひとつに、「『病気』『治療』『回復』という言葉の定義が当事者によってそれぞれ違う」ということがありました。ふつう、私たち部外者は、摂食障害というものが「病気」だと思っていて、みんなが「回復」することを願っていると思っていて、そのために「治療」が必要なのだと思っています。しかし、自助グループや医療機関、あるいは個人的に出会った当事者の方にいろいろとお話を聞くと、そんなに単純ではなかったのです。
(中略)さまざまな人の語りがそこに存在したのです。
『質的社会調査の方法 他者の合理性の理解社会学』CHAPTER序 P22~23より引用
私のnoteに書いてあることがこの部分に凝縮されています。
もしご興味がある方がいらしたら、ぜひお手に取ってみてください。
この章の最後に、あえて当事者にとっての共通点を挙げるとすると、
「見た目には響いてほしくない」
「でも、髪を抜くという行為(によってもたらされる何か)が無くなるのもイヤ」
という2つの事象の間に身を置き、同時に「よせばいいのに」という他者の視点の先に立たされているということくらいなのかと思います。
抜毛症を見つめる際、当事者にできるのは、一般的な常識はひとまず置いておいて、最初2点のダブルバインドの間にいる自らのスタンスを確立すること、これに尽きるのではないかというのが、抽象的なものですが私の意見です。
おわりに
思春期の子供が自立するのに反抗期を経るように、「よせばいいのに」というド正論抜きに抜毛症という自分の一部について考え、他者にぶつけ、その中で自分の考えを確立する場を、私はずっと必要としていたのだと思います。
このnoteで書いている内容は、あくまで私はこうだったという内容であって、他の当事者の方にも同じことが完全にあてはまるでしょう?というものではありません。
もし当事者の方や親御さんが私の書いた文章を読んで「いや、この部分は自分には当てはまらないな。自分はもっと・・・」と考えるよすがとしてくれる機会があれば、これほどうれしいことはありません。
ここまでお読みいただいてありがとうございました。