マイノリティの感覚が触れる世界~言葉の役割~

un-veiling

いきなり壮大なテーマですが。笑

今回は、「一般的」ではない感覚との渡り合い方について、最近ぐるぐる考えていたことを言語化するブログとなります。

凹凸っ子に触れて思うこと

いきなりですが、私はけっこう日常生活の中でいわゆる凸凹っ子に触れる機会が多いです。

WAIS-Ⅳを受けた上で加わったコミュニティでの話だから、おのずとそのような人々が集まるのですね。もともと家庭教師や個別指導が好きというメンタリティも関係していると思います。

さて、その中では、少なからず、本人の趣味嗜好や考え方・感じ方がいわゆる大多数と違う、というケースが多々見受けられます。

私自身、その子や親御さんとの関わりの中から多くの事を学んでいます。

あの子私と似てるな、親御さんの事を信頼しているんだな、親御さんから見た印象と私からの印象は違うな…などなど、考えることは尽きません。

私と関わる子によくあることとして、自分の面白いと思うことはクラスのみんなは興味無い…(その逆も然り)ということがあります。。

もちろん趣味が違うことだけが全てではない、同世代との共通項がある子も多いですが、えてしてそのマイノリティな部分の受け皿ってなかなか無いよなあ、と思います。

まあ同級生からしても昨日のアニメの話をしたかったのに本人しか興味無いようなことを話されても困ってしまいますからね。そのような反応だろうと予想がつくと、ある程度引っ込むのは仕方のないことだと思います。

そして、そのような子が「年上のお兄さんお姉さんと話すのが好き」というのもあるある。

基本的に年上というのは心の余裕がありますから年下には気を遣えますし、今自分が話を聞く尺だなと思えば聞けます。純粋に人生の経験が物理的に上ですから、そういう視点でモノ申すこともできます。

そもそも大人は交流を持とうとする時点である程度人と関わろうとするメンタリティの持ち主だったりしますからね。

子供は親御さんがつれてくるケースが大半なので、外と関わろうとするかは個人によりますが。

元の形が尖っている子が人の世の中で生きていくとは?

さて、そんな中で私が思うのは、ズレるにも受け皿が必要だよなあ、ということです。

こういう気づきはやはり年若い方が予後がいいと思うのですが、逆に本人の頑張りによって周囲と不協和音が生じなかったりするとだれも問題意識を持たず、話題にも上がりませんから、難しいですよね。

先程、ツイッターを見ていると、ギフテッドや2Eといった文脈でTLに「ギフテッドの子には必ず周囲と感覚が違うのでは?と思うタイミングがある。その感覚を否定せず、伸ばすところはのびのびする機会を持ちつつ、さりとて周囲とも調和して生きられるよう」という旨のツイートを良く見かけます。もちろん大人のツイートです。

私自身も、ずれる、大人数といると浮く(だから友人と会うのは小人数がいい)、という人間です。たまに3人以上でも穏やかな雰囲気で話せる場所があると、それはとても貴重な場だなあ、と思います。

とんがりやズレというのはあくまで多数派から見た時の視点。

でも、私自身は「普通が一番」ということばに、ひそかに傷ついてきたように思います。

自分の中にある、まだ言語化されていない、でも何となく周囲に「そうだね」とは言ってもらえないようななにかたち。まあそんなこと自体は誰にでもあると思うのですが、絶対量が多いのだろうな、とは思っています(じゃなきゃこんなブログは書きませんね。笑)

そのような感覚は、出すのに勇気を伴います。人も選びます。

自分の守備領域に対して「わぁ沢山知っててすごいね!」とか言われたいわけではありません。

自分にとってのスタンダードな感覚を否定せず、フラットに聞いてくれる人がほしいだけなのです。

別に得意な分野に限らず、そもそものものの感じ方考え方がマイナーな人というのは存在します。その本人の全ての感覚のよりどころを、親御さんなど限られた人がまかなうというのは、私は無理があると思います。

ただ、周囲は本人が自分の形を知る手立てを作ることはできるのではないでしょうか。どんなにいわゆる「普通」とは違くても、まずは安心して自分の形を知ること。そして、人が人である限り、人との関わりの中で生きていく存在なのだということ。

形は変えられなくても、出し方の調整や人との相性はあって、とんがりながらでも他者と関わろうとする心に対して応えてくれる人はいるのだということ。

長い目で見ると、そんな「他者の中で生きようとする気概」が結局は自分に居場所を与えてくれるのではないかな、と思うのです。

言葉にできることはあるか

私自身ブログを書いたり上記のような方々と関わる中で、当事者の言葉にはいろいろな力があると思っています。

自分と似たような他者の言葉は居場所になりえ、世界を知る切り口となりえる。

また、それこそ「年上のお兄さんお姉さんに話す」ことでお兄さんお姉さんの語彙でマイワールドを認識したり受け取られるということで自分自身への理解を深めることにもなるでしょう。

言葉というのはラベリングです。

それまでもやもやとそこにあった何かを分割し、認識する手立てです。

世の中というのは本来あいまいなものに対し、言語化をするというのはその理解を促すもの、と私は考えています。

自身の抜毛症というそれはそれはせま~い領域ですら、「このような切り口で抜毛症を語るブログを初めて見ました!!」という熱いレスポンスをいただくこともあります(本当にありがとうございます)。

そして、レスポンスを下さった方とお話してみると、初めてお会いする方にも関わらず抜毛以外の部分でもなんだか親近感が湧くお話ができたのです。言葉の持つ波長というのはきっとあるのだろうなあ、と思った出来事です。

そして、こんなドマイナーな内容ですから、「他の抜毛症に関する発信を読んでもしっくりこなかったが、ここの文章には同意できる」という読み手の感覚は、「こういうことを考えている人もいるんだ。自分はまちがっていなかった」という解釈にもつながります。

もちろん、明確な正解不正解のある事象ではありませんが、自身の文章にこのような感想をいただけると、やっぱり文章っていいなあと冥利につきますね。

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