はじめに
本記事は2023年11月に行ったインタビューの内容から作成したものです。
Xにいらっしゃる方との対話から生まれた、普段とは少し毛色の違う、すこしギフテッドという概念からは離れた内容となります。
また、今回の内容はMENSA年少会員コミュニティの大パイセンMaiさんのこちらの動画とも多分にリンクするものかなと思っています。
この文章を書いている時点(2023年11月)でも直近で上がっている動画なのですが、
Maiさんがご自身のメンター・カウンセリング業の中で同じようなお悩みを持つ方と複数接したのだろうな、と思わされた内容です。
マイノリティのいれこ
さて、今回もインタビュー「ギフテッドの女の子を持つ親御さんに話を聞きたい」で実際にお話をさせていただいた内容をもとにしています。
女の子という文脈で共通して出たのは、比較的特性や気質が表出しずらい、また表出の仕方も一般的な像とされる男性のそれとは違うという、マイノリティの中のマイノリティという構造。
これはすこし話題がそれてしまいますが、そもそも女性という性が、かなり男女平等が進んだ今日においても未だメジャーなものになりきれない構造は社会に存在しています。今に始まった話ではないですが「女性初」「女(性)●●」みたいな表現がしっくりくる場面は少なくないですしね。
以下リンク先の女の子ギフテッドの記事にいただいたリポストの中には、うちの子は男の子ですがあてはまりますと仰っていた方もいらっしゃったのですが、便宜上、というか傾向としてはやはり女児寄り(とする方がなんとなくイメージしやすい)現象なのかなと思います。
言語化とは世界を認識する手段である
さて、いきなりですが、私たちは言葉でもって世の中を理解することができます。
会ったことの無い人であっても優しい、かっこいい、せっかち、おっとり、といった言葉で表現されることで、こういう感じかな、とある程度目星をつけることができるということを指します。
このように、ラベリングする、新たな言葉ができるということは、「それを指す言葉が存在する」ということで人間がそのものを「ある」ととらえることを可能にすることに繋がります。
もちろん、その「像」にバッチリあてはまるものというのはなかなかありません。特に人の属性を指す言葉だったりすると、結構人によって解釈の幅があることもザラです。
ですが、時世をバシッと捉えていたり、誰しもがなんとなく思い浮かべていたけどもイメージ止まりだったものにこれぞ!という言語化がされたりすると、旬を過ぎても言葉として生き残ったりしますね。
また、言語が違うと指すものが違うみたいな話もあります。
有名なもので言うと、フランス語ではちょうちょと蛾を意味する言葉は同じパピヨン(Papillon)といった話があります。日本人からしたら大きな違いだろ!という気もしますが、フランス人からするとじゃあどこが境目なのか言ってみろよってなるんでしょうね。
また、西洋社会から見て全くの未開の地みたいな島で独自の言語が発達していたみたいな場合、学者が英語との対応を考えたりします。言語学のコンテストとかそういうことしていますね。
そのような場合、その解釈があとあと違うと分かったけど勘違いされたまま広がったとか、調査者側の文化にはないものを指す言葉があるみたいな発見からその地域独自の価値体系の存在が示されるとか、そういうのもザラらしいですね。
繰り返しますが、「それを指す言葉が存在する」ということで人間ははじめてそのものを「ある」ととらえることができます。
「それ」を指す言葉が無いということは?
こんな長い能書きを踏まえて今回の記事で伝えたい事は一体なんなのか。
それは、
「それを指す言葉が存在しない」ということは、すなわち理解されづらいことである
自分の持つ性質が言語化(ラベリング)されないという環境に身を置くことはしんどい
ということです。
もう少し解説していきます。
例えば、発達障害のグレーゾーンとされる概念がありますね。不注意とかコミュニケーションの難とか、いわゆる傾向こそあるものの、確定診断には及ばないというアレです。
このような状態に陥ってしまうと、周囲からは「障害ではないんでしょう」と扱われてしまうのと本人(周りも)の困り感の板挟みになってしまい、本来受けるべき適切な支援や理解を得られなくなってしまう、という不幸な構図があります。これがラベリング未満の苦しみです。診断が下った方が「ほっとした」「自分の努力不足ではなかったのだ」と自己受容が進むことはよくあります。
HSP/C(Highly Sensitive Person/Child)という概念の例もあります。HSPはいわゆる「繊細な人」を指す言葉(子供だとP→C。以下HSPと表記)。日本人の五人に一人という割合、そして病気や発達障害とは別物という受け入れやすさ(?)でもって、短期間で非常に知名度を上げた言葉ではないでしょうか。
人と一緒にいると疲れる、過剰に気にしてしまう…個々の特徴は一般的には「みんなそんなものだよ」と言われてしまうものであっても、やっぱり自分にとってはしんどく生きづらいのだ。そんな姿なきモヤモヤを、「人を慮るやさしさ」といったニュアンスを含むHSPという言葉でラベリングされることでもって自分にそのような性質がある、と初めて肯定的に受け入れることができた人は決して少なくないのではないでしょうか。
もちろん上記のラベリングには言葉をとりまく問題も沢山あるのですが、この記事では重要ではない点なのでいったん割愛します。
このように、自他ともに認識するラベリングがあることは、大枠で自分を理解する大きな手助けになるのです。そして同時に、ラベリングはグラデーションである以上、「そこまではいかない」という人も同時に発生させることとなります。
それは医療の場であれ身近な家族、友人相手であっても結局は「その人によるし、もうちょっと頑張ってみたら」という言葉でもって同じような場所に引き戻されてしまうような現象を生み、アイデンティティの揺らぎを生み出してしまうのではないでしょうか。
求められる立場の多さ問題
界隈では、子供の困りごとによる診断の中で自分にも同じような特性があるのではないかと親御さんも思い至ったり検査を受けるケースがよくあります。
また、世間一般的に言ってもライフステージが多岐に渡りがちな女性をとりまく現象として、進学、就職、結婚、出産、介護etcといった環境や必要とされる役割が変化することを大変だとする声は決して小さなものではありません。上記で挙げた動画を作成したMaiさんも、こうした声を少なからず聞いているのではないのかな、と思います。
それまでの環境ではなんだかんだ適応できていたけれど、今のこの立ち位置は厳しいと相談を受けるケースですと、病気など明確な形で診断が下らないことは少なくないと聞きます。
あまりにも大きな難がその人にあると簡単に断じることのできる問題ではありません。
すべての環境でうまくやるなんて、人間はそもそもそんなによくできたものではありません。
おわりに
今回取り上げた内容は、ギフテッドという内容からは離れたものにはなります。
ただ、わが子がいまいちどうラベリングされたもんか…ないし、育児をする中で自分自身もなんだったのだろう、と思うに至っている親御さんはきっと少なくないのだろうな、という気持ちから、やや想像目線ではありますが文章にした次第でした。
しかし、重ね着症候群、アンダーアチーブメントという概念とも密接にかかわってくる、まさに今日の社会と一人一人の人生のかけ合わせによって起きる、誰でも当事者となりえる現象なのではないでしょうか。
このような声を実際に聞くという場に曲がりなりにも立ち会った身としては、まさに時代のある意味最先端、彼ら彼女らは炭鉱のカナリアであるのだろう、と思わずにはいられません。
では、今回はここまでです。
お読みいただきありがとうございました!