はじめに
こんばんは。
今回のテーマはカミングアウト。自分の中の、おそらく多くの人には無いものを実は自分にはあるのだ(もしくはその逆)、と人に知らせるという行為について書いていこうと思います。
うまくいくとき
私の「カミングアウト」はやはり抜毛症であることが多いのですが、実はあまり周りに話した時に引かれたということはありません。
もちろんゼロではないです。言う相手ミスったな~という時もありました。ただ、「今いけるかも」と思った時、大きく外したことはあまり無いという体感です。
理由を考えると、相手とそれまでのやりとりで一対一で話すムードがすでに出来上がっているとか、「私はこんなにつらかった!!」「分かってくれ!!」といった当事者である自分と同じ解像度での理解は求めなかったというのが要因なのではないかと思います。あくまで、抜毛症であるという事実だけさっと伝えるのです。
私自身のカミングアウトの思い出として覚えているのは、複数人での飲み会の後、長年のつきあいの友人宅にお邪魔して二人で温かいお茶を飲んでいる時でした。
大勢で話していた空気から変わり、話題の移り変わりも段々ゆったりとしてきた時。お互いの世間話がちょうど途切れて沈黙になってきたというタイミングで「あ、なんか今ならいけそう」と思った記憶があります。
別に、言おう言おうと思って家まで行ったわけではありませんでしたが、そういう瞬間というのはたまにやってくるのではないでしょうか。
ミスったわー、なとき
逆に、どういう時がダメなのか。
まず、パブリックな場や大人数の場というのはどうしても「一般的にはこうでしょう」という要素が正とされる場ですから、あまりふさわしくはないでしょうね。
自分が一人の人間というよりは会社やバイト先のように所属先の一員であったり、カミングアウトする内容とは特に関係ない目的でこの場に来ている、という時も、まぁあまり良い結果にはならないでしょう。
私が「あ、タイミングミスったわ」と思う時は、大体このような場に身を置いている時の事でしたね・・・
ちなみに抜毛症に限って言うと、美容院で特に抜毛症の事を知らない美容師さんに当たり、毛量や頭皮の様子について心無いことを言われる(もしくは明らかに気を遣われる)というなんとも救いの無いイベントはたまによく発生します。
ま、美容院ってそもそも髪キレイにするところですからね。。
プロから見て明らかに不自然な生え方している毛とかあったら、見た目を整えるという場の目的からは外れるわけですから、なにか言いたくなる気持ちはあると思うんですよ。髪の毛大事にしろって。
でも、そう考えると、あらためて美容院という業界には本当に抜毛・脱毛の概念の知名度が広がってほしいなぁ・・・ムダに傷つく人が減ってほしい・・・と思わずにはいられないですね。
少し知っているだけでも言わずに済む言葉というのも、世の中確実に存在しますから。
それでもなぜカミングアウトするのか
そう。カミングアウトはちょくちょく失敗に終わるのです。
私が遭ったこともないようなもっとみじめな思いをした人も、もしかしたらいるかもしれません。
でも、そんなリスクを負ってまで、人はなぜ他者にカミングアウトをするのでしょう。
私は、相手のことが好きだからだと思っています。
人は、自分以外の他者とつながりたい生き物だからです。
話がでかくなりましたね。もう少し補足します。
「私はこういうものでね」という部類の中では比較的センシティブ寄りのものではある要素を相手に伝えるのは、少なからず相手との距離を縮めたい、自分にはこういう側面があるということを知ってほしいからやることなのだと思います。
カミングアウトされた側の正しい答え方とは何か
もちろん一つの正解なんてないのですが、個人的には「へぇ・・・」とか「そうなんだー」とかが一つの答えかな、と思っています。
特に意味なんて無い、でも私の中の抜毛症という要素を在ると認識しているのが分かる返事が返ってきたとき、ああ、このカミングアウトは成功したな、と感じます。
マイノリティな要素は、そもそも相手にとっては考えたこともないようなことだったりしますから、当然解像度は違います。
私自身、例えば友人が名前も知らないような難病にかかったと言われたら、とっさにいい感じのことは言えないと思います。
その病気によってもたらされる痛みも、生活の変化も、何もわかりません。
自分にできる受け取り方をすることしか、部外者にはできませんから。
仮にも相手がその病気の痛みをどうしてあなたもわかってくれないの、とか言ってきたら、悪いけど距離を置くと思います。
しかし、そんな状況でも、「そうなんだ」は言えると思います。
大丈夫だよとか頑張ってとかだと「私の何をわかってるんだ」という気持ちになってしまう時もありますが、「そうなんだ」や「ふーん」はなまじ意味が無い言葉故に傷にもなりません。
それでいて、きちんとあなたの存在は無視してませんからねというメッセージにもなる。これは、とても強いです。
文脈は逸れますが、就活で満身創痍になっていた時も、人に言われて一番ほっとした言葉は励ましでも慰めでもなく「そーなんだ」でした。
当事者のカミングアウトという題材について、少し前(2023年冬)にドラマになったリエゾンという作品を紹介します。
第4話|ストーリー|金曜ナイトドラマ『リエゾン-こどものこころ診療所-』|テレビ朝日 (tv-asahi.co.jp)
主人公の遠野志保はADHDの研修医で、その傾向に日々苦労している様が描かれています。ある日彼女はバイト時代の仲間たちと会う約束をし自分が発達障害なのだということをカミングアウトします。
そして、「自分もそういうことあるよ」「深く思いつめない方がいい」と、いわゆる一般的な優しい言葉をかけられ、かえって傷つくという思いをします。
その時のことを主人公の勤める診療所のスタッフに話すと、「結局遠野さんは、周りにカミングアウトすることでどうしてほしかったの?」と質問されるのですが、
その答えは、
「ただ、知ってほしかった」。
頑張って普通になろうとしてもどうしてもできない、そういう人もいるとただ知ってほしかった、というものだったのです。
そう。慰めや一般的な言葉ではなく、存在を相手に分かってほしい。それだけのことなのです。私と同じだ、と思いました。
おわりに
自分の常識や日常生活の外にあるような事象に対して「そういうものもあるんだ」と言える人はきっとそう多くはないのだと思います。「そうはならんやろ」という方がずっと楽だし、考えなくていいし、なんなら笑いの一つにくらいなるからです。
私は、そのような事象に遭遇した時の「ふーん」とか「あ、そーなの」というとりあえず存在を認めることの大切さを、自身が少数派になった経験から少しは学んでいるのではないかなー、そうあってほしいなー、と思います。
もちろん程度はありますが、自分の中のマイノリティの要素を伝える時にそれがストンと「そうなんだ」と受け取られるかは、相手と自分がお互いを一人の血の通った人間だと認識している空気感であったり、相手に対して自分と同じ理解度や共感を期待しない、カミングアウトする側の心の余裕といった要素、そういう目に見えないものなのかもしれないですね。
そういう他者の見方ができる人は、とてもかっこいいと思います。
では、ここまでお読みいただきありがとうございました。