はじめに
いつもお読みいただきありがとうございます!
今回の内容は、2025/1/26夜に開催されたun-veiling2回目のオンラインオフ会のレポです。
1回目のレポはこちら(※オンラインオフ会の全体的な流れをお知りになりたい方はこちらをご覧ください)
今回は、2回目の話題の中でも特に盛り上がった「それをしている過程」が好き!というテーマについて、レポを共有させていただきます!参加者は私以外に3名いらっしゃいましたが、成人当事者であるお2人が特に会話を広げてくれました。
では、いってみましょう!
情報収集ならいくらでもできる!
「これをやっている時の自分が好き」というお題にまず答えてくださったのは、前回もご参加くださった成人当事者の方。
情報収集が好きです。あるものに対して色々ネットなどで情報を集め、自分なりの考えやピンとくることを見つけるのに喜びを感じる、とのこと。あまり人にその内容を伝えることはしませんが、身内には共有したい。やはり、カベ打ちにも相手がいる方が良い、と伝えてくださいました。この方は、内容はそのたびにバラバラで、美容院などの雑誌なども時間の許す限り読みたい!とのことです。
また別の方は、自分も情報収集という点で近いかも、と前置きして、お仕事で使っているslack(チャットツール)の話を出してくれました。slackでは自分の参加しているチャンネルで誰かが投稿すると目でそれが分かりますが、特別自分宛に来ているメンションでなくとも、一通り情報として仕入れることがその方の中ではデフォルトなのだそうです。
私も会社員の仕事でチャットツールは用いますが、自分向けでない情報は知りたい!という気持ちこそあれ、無数の文脈を伴うものでもあります。文脈ごとのスイッチの手間もあるし、個人的にはその全てを把握することもないだろう、という認識でしたが、その方曰く、一通りインプットしておくと、自分が直接は接していない社内事情など裏の力学のようなものが繋がるのだそうです。
一人目の方からの「そこから業務の改善案など出すこともあるのでしょうか?」という質問に対しても、そうですね、というお返事。仕入れられる情報は一通り仕入れて、背景を考えたい、とのことでした。
ちなみに私まるは直近のお仕事や、それこそこの記事を作るような、実際に伺ったお話を文章にするというのが「やっていてとても楽しい」と感じます。原稿は必ずしも話された順のままではなく、元の内容のニュアンスを損なわないように編集します。インタビューのような内容ですと、話していただいた方に原稿を確認してもらう手順も生じ、多かれ少なかれ修正も発生します。
ただ、多くの修正が来た時に「手数が多いなあ」という感覚より「良い文章を作りたい、やってやろう」「話し手の意図するところをもっと汲みたい」という感覚が勝った時、私はこのプロセスそのものが好きなのかもしれないな、と感じたのです。
これは話し手の情報だけでなく勉強や仕事にも共通しますが、特定の情報というものは沢山集めると段々点が線に、線が面に、とやがて網のようになっていきます。上記のお2人が情報収集を好きなように、私にもそういうところがあるかもしれない、と思い聞かせていただきました。
2,3手先が見える故のジレンマ
上記の情報収集の話題の中では、【2,3手先が見えてくる過程で、周囲との解像度がずれてしまう】という話題が自然と出てきました。
「このままでは大きなトラブルが起きてしまう」と感じた時、それを周囲に伝えると、「起きたときに考えればいい」と返されてしまう、ということで会話していたお2人の意見が一致したのです。
しかし、事が起こるまで待つのはストレスであり、実際に問題が発生して「ほら見たことか」と言うのも印象が悪いもの。さらに、自分の立場から上司にこのような内容を指摘すると、偉そうに聞こえてしまったり、誤解を招いてしまうこともしばしばです。そのような見え方をすることが分かっていると、わざわざ言うメリットの無さも相まって、本当は思っていることが言えなくなる、という構図が出来上がるのです。
また、普通のペースで仕事を進めているだけなのに、「目立とうとしている」と言われることもある、という意見もありました。ある方は、相手が評価を得やすいように工夫を凝らすこともありましたが、それで自分が評価されたりすることは特に無いし、自分自身にとっても負荷であるという感覚が強かった、と話してくださいました。
聞く側の視点
この流れで、聞く側の立場も加味するとまた別の視点での意見が出てくるのでは!と思い、ぜひ聞いてみたく以下のエピソードを出させてもらいました。
私自身が子どもだったころ、まさに「自分には2,3手先が見える」ということを話していた人のもとで勉強を教わっていた時のことです。
教わる側だった当時の私は、ある単元がなかなか理解できませんでした。向こうも説明してくれるのですが、なかなか腑に落ちません。そんな中、「どうしてこちらの意図が汲めないんだ!」という怒られ方をしたことがありました。その間には「あなたはどう思う?」と聞かれることはなく、当時の私自身も理解できない自分が悪いのだと思い込んでいました。
この話を聞いた片方の方からは、聞く側にもプライドがあり、意図せず相手を怖がらせてしまうこともあったのかもしれない。「分からないことをこの人に伝えるのは怖い」とも思われていたのでは、と話してくれました。
もう一人の方からは、「まず、自分にとって、分からないことを表明するのは嫌だという感覚はない。でも、それはあくまで自分の感覚。誠意を持って正確に答えたつもりでも、『もういいです』と言われたことがある。プライドを傷つけてしまったのだと思う」という言葉が返ってきました。
この流れの中で特に印象的だったのは、次のような言葉でした。
「自分の基準で良いと思ってやっていたことでも、相手からすると脅威に感じることがあり、その結果否定的な反応となって返ってきたのだと気づいた。長い時間をかけて、相手も大変だったこと、自分は自分でよいこと、その上で自他にどう対応していくかを考えようと思えた。」
小さい頃から、何も意識しないと目立ってしまうため、あえて目立たないようにしてきた。でも、それを続けるうちに自分のことが嫌いになっていった。だから、もう、そうするのはやめよう。良い意味で『もういいや』と思えるようになった、とのことでした。
自分は自分でいい。そう思うまでに、彼女自身がどれほど多くのことを感じ、考えてきたのだろう…。もちろん分かるわけもないものですが、この事をこの場で話そうとしてくださったことがただただ頭が下がる思いでした。
終わりに
今回出てきたような周りとの歩調の合わなさという摩擦感、特に「できる側」の負担は、しばしば無いもののように扱われてしまうのではないかな、と思いました。
同じ摩擦でも、私が出した例のような「やってもできないのに何度も叱責される」という表出は、わかりやすく大変そう、辛そうと思われやすいものです。一方、「自分の感じた危機感を取り上げてもらえない」「目立っていると思われる」といった逆側の声は、なかなかそれ自体が痛みとして認識されづらい構造があるのではないかな、と感じた次第です。
ただ同時に、今回のように決して周りとうまくやれた訳ではない話がこの場で出てきてくれたこと、そして、まだまだ一般的とは言えない形の「大変さ」について対話をすることができたという事に何か意味があるのではないかな、と勝手ながら感じております。
自分としてはまだまだ違和感は残る、それでも周りと向き合う姿勢を持つ方がいる。という事がもっと可視化されればよいな、という事を、この記事を書いていて考えました。
今回はここまでです。お読みいただきありがとうございました!