世の中から「ギフテッド」はどう見えているか

お子様について

はじめに

いつもご覧いただきありがとうございます!

2024年の初めの記事になりますね。今年もどうぞよろしくお願いいたします。

さて、今回は新年早々界隈をにぎわしているこちらの記事について。

かつて民間でのギフテッド教育で先行したNPO法人翔和学園のギフテッド教育と、その「理系の天才を純粋培養で育てよう!」というプロジェクトが結果的にうまくいかなかった、という内容について触れられています。

突出した子を集めた英才教育に挫折 「IQだけじゃない」学園の教訓:朝日新聞デジタル
 文部科学省が「これまで我が国の学校において取組はほとんど行われてきませんでした」と、今年度から始めた「特定分野に特異な才能のある児童生徒への支援の推進事業」。いわゆる天才児、ギフテッドと呼ばれるよう…

世間的に見た「ギフテッド」の子供について。「ギフテッド」という概念はやはり近年知名度を増し、今回のようにマスコミにも取り上げられることもしばしばです。

しかし、当時者もしくはその家族である界隈の中の方と、その外にいる方の間には一定の温度差があります。これは日々携わっているかいないかで差があって当然なのですが、やはりなかなか「ギフテッド」というラベリングでなんとなくつくイメージというものはそうそう変わらないのだろうな…と今回のような記事を見るたびに思います。

今回は、上記の記事に対して様々な意見が寄せられている意見について所感を書いていきたいと思います。

また「ギフテッド」というラベリングのミスリーディングさについては以前も以下記事で考察しているので、よろしければお読みください!

指導者が量・質ともに足りていない/子供を責めすぎ

まず、翔和学園の取り組みに対しては「方向性があまりにも素朴だ」という声が多く寄せられていました。いわゆる理系の天才の育成を目指し、IQ130以上の生徒を対象に、個々人の興味関心先を徹底的に調査させ、外部講師もつけるというまさに英才教育とも呼べる内容。

「ギフテッド」たちは、なにも生まれた時からすべて完璧で成熟した存在ではありません。当たり前です。2Eタイプになるとその困難さにも拍車がかかったものになります。

正義感からの怒りや外部から取り込む情報量の多さゆえの混乱、疲弊。そして学校現場との相性の悪さ…本当にその子と環境のかけあわせの数だけ像がありますが、共通して言えるのは、これらの内容はいずれも常識の範囲外なのです。

苦手なことでも頑張れと言われ、全身全霊で抵抗する子と、熱を出すまでがむしゃらに取り組む子。

どちらも界隈にはいますが、どちらも常識的には「そうはならんやろ」「どうしてそんなことに」という表出。そこを紐解くには、専門的な技量が不可欠なのです。

現状、まだまだ当事者をとりまく環境は一枚岩ではありません。界隈内での繋がりこそあれ、規模もお金も環境も情報も、ないないだらけです。

結局は、続ける力と繋がる力

一つの事を続けるというのは、勉強であってもそれ以外であってもなかなか難しいものです。

これは誰だってそうです。時間を設けるのが難しい、思ったよりも進捗が悪い、スケジュール管理が難しい、そもそも意欲を保つのが難しい、一緒に関わる人とのやりとりが大変だ…やらない理由はいくらでも思いつきます。

いきなりですが、ここで、「ダニング・クルーガー効果」について少し説明させてください。これは学習の際の理解度と本人の自信を2次元で表したものです。

補足すると、岡本さんの元ツイの「本質的なことは理解してない」とは、翔和学園のギフテッドプログラムの生徒の発表を聞いた有識者からのコメントです。あくまで生徒の興味関心の範囲内の理解内容であり、その分野の基礎部分などへの理解が弱い、というニュアンスの発言でした。

何かを続け理解を深めるというのは、常に自分って色々知っていてスゴイ!!楽しい!!というものではありません。むしろいかに自分がものを知らないのかをたたきつけられながら、自信やプライド等諸々をへし折られながら、それでも謙虚にその場にい続けられた(仕事であればそもそもお金につながった)人だけが、専門家になれるのです。IQの数字よりも、負けない事・投げ出さない事・逃げ出さない事・信じぬく事(そして土俵を間違えない事と本気でダメな時は全力で逃げること)なのです。

私の話ではありますが、私はダニング・クルーガー効果の存在を初めて知った時は目から鱗でした。そして、なにか新しい分野の本の2冊目を読んでいる時の妙な不安感にも納得がいくようになったのです。

「高IQを伸ばそう!」の限界と世の中からの見え方

とはいえ、我々界隈の民にとっては有名どころの翔和学園とその取り組みも、日頃ギフテッドにかかわりのない方からするとへえ、そんなことやってるところがあるんだね、という感じだと思うのです。

そして、なまじ浮きこぼれとか天才という(一般的に見て分かりやすい)ラベリングでもって当事者を見ているのであれば、生まれつきIQが高くて天才なんだから、そこを尖がらせて世のため人のためになる人材に育てればいいじゃない!多様性のご時世出る杭を打つのはよくないという意見が出てくるのは、これはある程度当たり前の話ではないかな、と思うのです。

そして、それを現に実行に移したのが、日本では翔和学園や以下URLの東大の異才発掘プロジェクトROCKETといった取り組みでした。

東大「異才発掘プロジェクト」の看板を替えた真意 | 東洋経済education×ICT
2014年から志ある特異な(ユニークな)才能を有する子どもたちに向けて、さまざまなプログラムを提供してきた「異才発掘プロジェクトROCKET」。不登校など学校教育になじめない子や、特定の分野で突出した能力を持つ子などの学びの場として注目されてきた。しかし、21年6月、この活動はROCKETの看板を下ろして「LEARN」...

しかし、これらのプロジェクトはいずれも「失敗」としてその形を終えています(ROCKETはLEARNへと名称を変え、新たなプラットフォームとして2024年1月現在も活動を行っています)。

ざっくり言ってしまうと、「才能のある子どもを選抜して、純粋培養で育成する」ということは様々な理由でうまくいかないものだということが分かりました。

これらのプロジェクトの失敗は、ギフテッド教育そのものの失敗を指すものではありません。私たち当事者支援者は、そのこれからを考えていくのです。

おわりに

今回扱った取り組みに対し、詰めが甘かった、大人の責任だ、というのは簡単です。なんなら海外事例でも前に同様の方針のプロジェクトはうまくいかず、該当者の予後はあまりよろしいものではなかったという話もあります(すみませんこの話の情報源を取得できず…出来次第更新します)。

ですが、個人的には誰かがやることではなかったのかな、と思います。そして、既に上記のような結果が出ているからこそ、そこから歩を進めるのです。私たち当事者も、そしてその外にいる人にも、「一筋縄では行かないのだな。決してバカにしているとかではなく、マイノリティにはマイノリティなりの大変さがあるんだな」という解像度に落とし込まれればいいな、と思うのです。

また、現在も世界各国でギフテッド教育をどうすればよいか、という話は上がっています。日本でも、世界でも、上記のような「純粋培養で天才を育てるのはムリ」という礎からいかに社会性を築くかという路線、将来メンタル不調に陥らない路線、興味分野を伸ばしたうえで社会性を育んでいく路線…もちろん結局はその子によるのですが、「純粋培養の天才」以外のオルタナティブもまた模索されつつあるのだ、ということを知る機会となりました。

粗削りな内容となりましたが、現段階での取り組みなどは今後ともぜひ調べていきたいと思いました。

そして、とりあえずは目下の居場所プロジェクトと書籍執筆を頑張りたいです。

では、今回は以上です。ここまでお読みいただきありがとうございました!

今年もよろしくお願い致します。

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